『私の話』

で早速、読んでみた。
小説の中にでてくるやさしさは、こんな不器用さや怒りのなかで感じた人のあたたかさから生まれたのかもしれない。
タクシーの運転手さんから『さいはての二人』の『遮断機』のおじいを連想させる。『遮断機』を読んでいておじいのように見守ってくれるのは、私にとって祖母かなとふと思い出していたら、『私の話』の中にでてきた祖母の話。
私も祖母に対して罪悪感をもっている。
自分の頑固さは祖母譲りだと勝手に思っているが、その祖母の泣き声を一度だけ聞いたことがある。トイレへつづく廊下でうずくまり泣いていた。
寝たきりになるまえの思うように体を動かせない自分自身への怒りなのか、そんな祖母を手をかすこともできず扉の向こうでじっとしている孫に対する怒りなのか。私はあの祖母が泣いていることに驚きかたまって動くことができなかった、あるいはみてはいけないと思ったからかじっとしていた。
その後どうしたのか覚えていないが、あのシーンだけはいまだに忘れることができない。その後、祖母は寝たきりになったが私はすぐ上京してしまったので、数回帰省した時に会っただけで亡くなった。
下に妹や弟がいるとどうしてもおばあちゃん子になってしまう。それなのに私は何もしてあげることができなかった。鷺沢さんが抱いた痛みとは比べられないほど小さな小さな痛みだけれど。。。
なぜか子供のころから多数派に入ることができなかったせいなのか怒りにも共感。

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