さよなら、サイレント・ネイビー/伊東乾

子供のころからなぜか、集団心理がただただ恐かった。(今はやりの前世ですかね。)
なぜ関東大震災で一般人が虐殺をするのか?
恐怖や不安、またはマインドコントロールで人は一線を超えられる。
オウム信者の大半は、私と同年代の人たちで、サリン事件も普通の人とは違う人(モンスター)たちが起こした事件ではなく、もしかすると隣にいた友人そしてもしかすると私自身かもしれないというのはずっと思っていた。
それは、今もいろいろな事件が起こるたびに、超えてしまう一線とそれを踏みとどませるのはなんだろうと考える。
この本を読もうと思ったのは、帯に書かれていた、


「誰かが黙って責任をとる」
これをずっと繰り返しているから、
1945年も1995年も、
そしていまも、
何一つ本当には裁かれないし、
日本は何一つ変わらない。
という一節を読んだから。
個人に責任をおしつける。
臭い物には蓋をする。
まずくなると反省や検証をせずに、システム(法)だけを変える。
説明責任のなさ。
最近、そんなことを多く目にしたり読んだりすることが多い。
1945年、1995年、二度あることは三度あるのだろう。

「さよなら、サイレント・ネイビー/伊東乾」への2件のフィードバック

  1. TBさせていただきました。

    知らなかった知識がいっぱい詰まっていて、いろいろと考えさせられました。

  2. >タウムさん
    TBありがとうございます。

    駄目なことの一切を
    時代のせいにはするな
    わずかに光る尊厳の放棄

    どんな時代になっても、強く流されずにいられるか。

    加害者は忘れたがるから、被害者は酷い過去を話すのはつらいから。
    でも、過ちを繰り返さないためにも、
    加害者は何をしたかを語り、被害者は何をされたか訴え続けなければならないのでしょう。歴史に忘れられないためにも。

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